広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter78. フォークソングの時代

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

今年の夏は第二次世界大戦後70年ということで、例年にも増してマスコミ挙げて多くの特集が組まれました。いずれも戦時の悲惨さと軍民を問わず戦争がもたらす苦悩が強調されていました。さらに敗戦時に虚脱を覚える一方で、もうこれで戦わなくていい、生命の危険も無くなると安堵したなどの告白もありました。庶民の実感であり、平和の大切さが心に刻まれた瞬間だったと、戦争の実体験を持たない私ですが納得できます。わが国が戦後70年の長きにわたって平和を維持できたのは奇跡とも言えます。この間に、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争など日本が間接的に影響を受けた戦争も少なくありませんでしたが、幸いにも戦死者が出るような事態はありませんでした。

私の学生時代は国外ではベトナム戦争が、国内では60年安保、70年安保が大きな関心を持たれました。1951年に結ばれた旧日米安全保障条約の改定をめぐり、1960年に猛烈な反対運動が起こり、国会議事堂の周囲を連日「アンポ・ハンターイ!」と叫ぶデモ隊が取り囲み、東京大学女子学生の圧死という犠牲者もでました。新条約が10年間の期限を迎えた1970年には、その自動延長にあたり「70年安保粉砕」をスローガンとする運動が全国的な学生運動(全学共闘会議=全共闘)として爆発しました。しかし全共闘所属の党派分裂から運動は内部崩壊し、連合赤軍事件など暴力的な革命を目指す運動と見なされ国民の支持をなくし、条約は自動延長されます。70年安保闘争は、1960年代に勃発しドロ沼化したベトナム戦争に対する反戦運動とも結びつきました。

60年代から70年代にかけてベトナム反戦運動のメッセージを歌詞に込めた歌曲が多く生まれました。これらは広い意味でフォークソングですが、とくにベトナム反戦フォークソングは世界を席巻し、公民権運動など政治的抗議を含むプロテストソングのジャンルでの代表と言えます。ボブ・ディラン(Bob Dylan)の「風に吹かれて」「戦争の親玉」、ジョーン・バエズ(Joan Chandos Baez)の「勝利を我等に」、ピート・シーガー(Pete Seeger)の「花はどこへ行った」、ジョン・レノン(John Winston Ono Lennon)の「平和を我等に」、「イマジン」など、ある世代以上ではどこかで耳にされた方も多いでしょう。日本でも、新谷のり子がベトナム戦争に抗議して焼身自殺したフランス女性フランシーヌ・ルコントを歌った「フランシーヌの場合は」、第二次世界大戦で多数の死者を出した沖縄戦の戦場に想いを馳せた「さとうきび畑」を歌った森山良子、ほかにも高石友也などが反戦フォークソングを歌っていました。

その森山良子のコンサート「フォークソングの時代」に行ってきました。若い人から「ああ、直太朗のお母さんですね」と言われ、(いや、直太朗が良子の息子だろう)と思い、世代を感じました。彼女のデビュー時代に流行っていた曲を中心に、ギター片手に約半世紀前の懐メロのオンパレードに、三階席まで客の入ったフェスティバルホールは和やかなムードに包まれました。「この広い野原いっぱい」「スカボロー・フェア」「見上げてごらん夜の星を」「涙そうそう」「さとうきび畑」などなど、私と変わらない年代の多い客席にそれぞれの青春を、そして一途に平和を願っていた学生時代を思い起こさせてくれました。

安保関連法案の参議院採決に抗議して国会議事堂に集結したデモ隊のありさまは、まるでデジャブのようです。反戦のためにフォークソングを歌わねばならない時代には戻りたくありません。

(2015.12.1)