広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter48. ゴンドラ

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

病院の私の部屋に、ゴンドラと運河のヴェネツィアの街並みを描いた油絵が掛かっています。最近戴いた恩師T名誉教授の作品です。手術記録に記載する摘出臓器のスケッチなどでも画才の片鱗を見せておられたT教授は、定年退職後にプロの画家に師事して趣味のみちを拡げられました。日展などにも応募される上達ぶりです。100号などの大作にも挑戦されているそうです。教授は現役時代からゴルフも好きでしたが、私には「研究に没頭しなさい」とゴルフ禁止令を出されました。さすがに、近頃はよく一緒にコースに出かけ、おたがいスコアよりも参加することに意義のあるコンペやラウンドを楽しんでいます。

教授の現役時代にゴルフこそ一緒にしませんでしたが、海外の国際学会にはよく同行しました。教授の同行者としては私がもっとも頻回だったようです。たしかに、アメリカやヨーロッパなどに、多いときは年に数回も同行したこともあります。イタリアの学会の帰途に立ち寄ったヴェネツィアもそのひとつです。観光地としてのヴェネツイアは非常に魅力的でした。国際学会でも一緒だった旧知のアメリカ人教授夫妻と出会い、彼らが私たちを高級ホテルの中庭で、ゴンドリエの歌声が流れる、黄昏の大運河を見ながらのディナーをご馳走してくれるという幸運もありました。以前来日したときに、三度目の結婚したてで溺愛する若い夫人がベジタリアンであることを耳に入れていた私が、会食の時に彼女に特別料理を用意して感激させたお礼だったようです。それらも含めて思い出深いヴェネツィアの絵だからと、とくに私に受け取って欲しいとの、今やT画伯とも言える名誉教授の申し出を有り難く頂戴した次第です。ちなみに、この絵の図柄は昨年末に刊行された大阪大学医学部同窓会誌の表紙を飾っています。

アドリア海の最深部という地の利を生かして、イスラム圏との交易で繁栄したヴェネツィア共和国の首都は、商人の活躍した街でした。シェークスピアの喜劇「ヴェニスの商人」は、貿易商の青年アントーニオと金貸しのユダヤ人シャイロック、美貌の才媛ポーシャをからめ、ストーリーを知らぬ人は少ないでしょう。最近ではユダヤ人迫害の差別問題の立場から、借金をチャラにされたシャイロックへの同情的な解釈もされているそうです。悪役シャイロックの強欲と融通の利かなさにはあきれますが、現代社会であれば契約履行を迫るのも当然かもしれません。

例の「肉1ポンド」の要求を契約通り認めるが、契約にない「血液」は1滴も許さない判決が、戯曲を喜劇として完成させています。しかし、再生医療が現実のものとなった近未来では、「ヴェニスの商人」は喜劇でも何でもなくなってしまいます。iPS細胞から筋肉を作ることなどは、わけもないからです。シェークピアの名作も形無しの時代が来るかも知れません。ただし、現状で約450グラム(1ポンド)の筋肉をiPS細胞から作成するには、おそらく数千万円以上の費用がかかるでしょうから、4~5千万円相当のアントーニオの借金3000デュカート(1デュカートは純金金貨3.56グラム)と大差がありません。やっぱり喜劇でしょうかねえ。

(2013.6.1)