広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter150.ミナト神戸

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

阪神間に住む私などは、商都大阪のもつ活気も魅力的ですが、海と山が近接する神戸に愛着を感じます。海上から近づくと目につくのは、まず神戸港のシンボルのひとつユニークなフォルム、和鼓状のポートタワーです。夜間はライトアップされたポートタワーの先、六甲南麓の市章山と錨山にそれぞれの由来となった神戸市章とイカリの電飾が浮かび上がります。1963年開業のタワーが耐震工事など全面リニューアルのため2年間休館するとのことで、この秋に訪れました。地元にいながら実は初めての展望台登頂です。展望最上階は雨漏りの跡が見られ、さすがに老朽化は否めず、エレベーターや展望歩廊が新設される再オープンが待たれます。

ポートタワーのあるメリケンパークには阪神・淡路大震災で壊滅した埠頭がメモリアルパークとして当時の姿を残し、あの激震を今に伝えています。真っ赤なパイプ構造のポートタワーに隣接して、真っ白なスペースフレームの大屋根が帆船の帆をイメージさせる神戸海洋博物館があります。館内に併設されるカワサキワールドは川崎正蔵が創業した川崎造船所(現川崎重工業)の歴史を伝えます。松方コレクションで知られる初代社長松方幸次郎は本業を発展させただけでなく、鉄道、航空機事業などにも進出し、地元神戸の商工業を牽引しました。海洋博物館はミナト神戸の歴史を展示するだけでなく、ガントリークレーン・シュミレーターや神戸港操船シュミレーターで童心にかえることが出来ます。また多数の精巧に作られた船舶模型やヴェネツィアのゴンドラの実物まで展示されています。模型はイギリス帆船「ロドニー号」、「咸臨丸」に始まり、移民を運んだ「ぶらじる丸」「あるぜんちな丸」そして「飛鳥」「飛鳥II」「タイタニック」「クイーン・エリザベス2」など古今の客船、貨物船、軍艦などが所狭しと陳列されます。

海外移住とりわけブラジルへの移住者はここ神戸港を起点として海を渡って行きました。1908年に最初のブラジル移住者781人が「笠戸丸」に乗船して出港しました。もともとロシア船籍の「笠戸丸」は日露戦争の戦利品として旅順港で接収され、移民船や貨客船に使用されて、第二次世界大戦末期に皮肉にもソ連軍によって撃沈される数奇な運命をたどりました。メリケンパークには親子3人の家族像が神戸移民船舶記念碑として建立され、「希望の船出」と名付けられています。日本からのブラジル移住には「ブラジル移民の父」と言われる高知県出身の水野龍(りょう)が活躍しました。1928年に神戸に「国立移民収容所」が完成、無料で約10日間滞在し、各種研修と予防接種を受けられました。収容所は何度かその名を変えて存続し、1971年に「神戸移住センター」として閉鎖を迎えました。累計25万人のブラジル移住は終焉し、最近では日系人が日本に出稼ぎに来る時代となりました。

「国立移民収容所」の建物は現存し、神戸元町から鯉川筋を北に約15分、「海外移住と文化の交流センター」として歴史を今に伝えます。全国各地から集められた移住者は、洋服、ベッド、スチーム暖房、洋式便所など海外での生活様式を短期間で詰め込まれ、ポルトガル語研修まであったそうです。周辺には移住に必要な「渡航用品廉売店」があり、湯船に使うドラム缶が必需品だったと言います。一日で仕上げる洋服店もありました。移住者のほとんどが貧しい農夫、日本で食いつめた人、徴兵を回避したい人、中には海外逃亡を図る犯罪者や移住資格を得るために偽装結婚をしている家族もいたようです。種痘、腸チフス予防接種やマラリア予防の話など感染症対策もここで行われました。トラコーマが見つかると移住不許可でした。

移民収容所の悲惨な様子は、第1回芥川賞(1935年)受賞作「蒼氓(そうぼう)」(石川達三)に詳述されています。1930年(昭和5年)に集まった移住者の不安と期待の8日間を描いた本作は、移民監督者として実際にブラジルに渡った社会派作家石川達三の代表作の一つであり、出世作でもあります。彼が1970年のノーベル文学賞候補に推薦されていました。50年間非公開の候補者名や選考過程を、スウェーデン・アカデミーが今年5月に明らかにして判明したということです。

(2021.12.1)