広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter38. 分子ガストロノミー

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

最近、日本料理店やレストランで従来の食感と異なる料理が提供されることがあり、新鮮な喜びを覚える機会が増えました。その中には分子ガストロノミーといわれる手法を用いた料理が少なからず含まれているようです。たとえば泡状の刺身醤油などがそうです。たまり醤油などと違った舌触りと味わいが、新鮮な魚介類の持つ自然のうまみを引き出してくれます。醤油を泡状にさせるのにゼラチンとミキサーが用いられているようです。この手法は「ヌーベ」と呼ばれ、さらっとした液体なら何でも応用が利くので、醤油以外にお酢なども材料になるでしょう。

食材をムースのような泡状にする調理法や調理器具は「エスプーマ(Espuma)」と言い、スペイン語で泡を意味します。世界一予約の取れないレストランとして有名なスペイン・カタルーニャ地方の店「エルブリ(El Bulli)」で開発されました。卵やクリームの風味を混ぜることなく、食材をフォーム状にするのに高圧の亜酸化窒素が使われています。日本では亜酸化窒素が食品添加物として認可された2005年以降に、正統派エスプーマが拡がったようです。これを使えば、豆腐やフォアグラなどの個体も泡状に加工出来るので、料理のソースやトッピングにもってこいです。素材の工夫次第で、見た目も美しく、口当たりも軽やかになります。

「エルブリ」のシェフ、フェラン・アドリアは、エスプーマのように化学的手法で独創的な調理を行い、この道のパイオニアの一人です。調理による食品の変化を物理的・化学的に解析し、分子レベルで解明しようとする研究分野が分子ガストロノミーです。分子美食学とも訳されるこの分野では、1992年に国際学会も設立されています。人の本能のひとつである食への飽くなき追求は、ここにいたって科学との合体を果たしたわけです。分子ガストロノミーの研究で、革命的とも言える食べ物が生まれました。熱いゼリー、空気のように軽いふわふわムース、人造キャビア、球状ラビオリ、蟹のアイスクリーム等がそうです。フェラン・アドリアはアルギン酸塩を用いて口中ではじけるような食感を持つ球状ゼリーを創作していますが、いつか味わってみたいものです。

分子レベルの研究と言えばやはり生命科学です。この分野は分子生物学と呼ばれ、めざましい進歩を遂げています。ヒトのゲノム(遺伝情報)解析が進み、2万数千個の遺伝子の存在が推定され、それぞれの機能の研究が行われています。その結果、病気の診断や薬の開発などで成果が現れつつあります。分子標的薬と言われる薬は、とくにがん治療において従来の抗がん剤の概念を変えました。従来の抗がん剤ががん細胞だけでなく正常細胞も攻撃するのに対し、分子標的薬ではがん細胞だけをねらって効果を発揮することが可能です。しかも抗がん剤と併用も可能なので、より有効な治療が期待できるわけです。

夢のような薬、分子標的薬ですが、がん患者によっては薬が効かない場合や副作用がないわけではありません。しかし、ある種の分子標的薬では、投薬前に患者の遺伝子を検査して、効くかどうかを予測することも可能になってきています。このように個々のがん患者の体質に応じて治療を行うことを、オーダーメード医療と呼び、芦屋病院でも腫瘍内科が主体になって実施しています。

科学の発展はすべての事象の分子レベルでの解明につながり、その応用によって人類の生活は豊かになり、病気の診断や治療にとどまらず、贅沢な食生活も楽しめるようになりました。とはいえ、発達した科学は時には暴走し、一歩間違うと原子力発電所の事故のようになります。慎重な対応が望まれるわけです。

(2012.9.1)