広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter144.デカメロン2021

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

昨年来のコロナ禍は、感染ピークの波状攻撃のたびに「緊急事態宣言」や「まん延防止等重点措置」などが発令され、人々の生活様式を一変させました。公私を問わず宴会は激減、休日の外出や外食もめっきり少なくなりました。代わって引きこもって仕事をするテレワーク、娯楽も引きこもってゲームや趣味に走るなど感染防止がすべてに優先される時代になりました。病原体との接触を可能な限り減らすのが感染予防の鉄則であるのは、洋の東西を問わず今も昔も変わりません。人獣共通感染症であるペストは、14世紀の大流行に世界人口の20%以上が死亡するほど猛威を振るいました。ヨーロッパでは実に人口の30〜60%が失われたと言います。

ペストを逃れるためにフィレンツェ郊外に引きこもった男女10人が、一人1話ずつ1日に10話、10日にわたり仲間に語る趣向で全100話を記したのが、ジョヴァンニ・ボッカッチョによる「デカメロン」です。「deka」は「十」を意味し、「十日物語」とも訳されています。自由課題も含めて日によってテーマが決められていて、恋愛譚、男女の騙し合いの話、人生の成功と失敗話などが繰り返しテーマとなり、エロティックな笑いを呼ぶオブラートで包まれているのは、感染の恐怖がもたらす閉塞感を吹き飛ばす願望からでしょう。

翻訳文庫本(河出文庫)でも上中下三冊、ゆうに1500頁を超える大作を紹介するのは至難です。例えば第一日第10話の短編では、若くて魅力的な婦人を恋する70歳の老医師を女たちが「大勢の美男子に言い寄られている婦人にどうして執心するのか」と揶揄うと、「世の分別ある人は私が婦人に恋焦がれるのは当然だと思っています。彼女がそれに値する人だからです。みなさん葱(ネギ)や韮(ニラ)も葉の青いところを食べたがるけれど本当に美味しいのは球根部分なのです」と答えます。若い男に性的に愛されることだけを喜ぶより、老人に知的にも情的にも愛される方が味があると嗜めたわけで、女たちを赤面させたのです。第一日の序文でボッカッチョはペストに罹患した患者の悲惨な状態を述べ、さらに今でいうロックダウン状態のフィレンツェに遺体が累累と放置される惨状を語っています。

14世紀のペスト同様に新型コロナウイルスのため全土でロックダウンが行われ、外出禁止で日常を失った若者たちの声を集めて「デカメロン2020」(方丈社2020年12月)が出版されました。イタリア在住の内田洋子さんの企画・翻訳で、クラウドファンディングで出版資金を集めたものです。2020年3月10日から5月10日(27日)までの連日、イタリア各地に住む17歳から29歳の若者24人が日々の記録を綴っています。本書は大判カラー印刷で、コデックス装というすごくおしゃれでユニークな製本がされています。糸綴の背中がそのまま見え、そこに書籍のタイトルが印刷されている美しい装丁です。何より本を完全に開いて写真なども歪みなく見ることができます。

ヨーロッパでいち早くパンデミックに襲われ、医療崩壊をきたしたイタリアの若者たちが語ったかけがえのない記録は、作者の顔写真はもとよりQRコード付きのものもあり、書籍の印刷写真だけでなくYouTubeで動画も楽しめます。ボッカッチョもびっくりの「デカメロン」です。また16のコラムにはコロナ禍のイタリアの実情が散見され、貴重な記録になるとともに新型コロナウイルス変異株が拡散しているわが国の参考にもなりそうです。私たちもそれぞれの「デカメロン2021」を作ってみてはどうでしょう。

(2021.6.1)