広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter109.羊と鋼

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

わが家には小さいながらも一応グランドピアノがあります。ドイツ・ライプツィヒで製造されたブリュートナー(Blüthner)で、明るい木目の艶やかな輝きは見た目もなかなか魅力的です。ピアノは生き物ですからチューニング(調律)が必要です。専任の調律師が数時間かけて作業します。いつも黙って見流すというか聞き流していたチューニングですが、宮下奈都著「羊と鋼の森」(文藝春秋)を読んですっかり認識が変わりました。ピアノはいうまでもなく鍵盤で動くハンマーが弦を叩く仕組みなので、音楽事典的には有鍵弦打楽器に分類されるそうです。そのハンマーには羊毛からなるフェルトが使われていて、羊の育ち具合でフェルトの質まで変わるそうです。さらにフェルトを目の細かいヤスリで削ったり、針で何回も刺し、それも針を刺す位置、向き、角度、深さを工夫して、最適の弾力状態に持っていきます。

調律の第一歩は調律工具のピアノハンマーを用いてチューニングピンを回して音の高さを調節することから始まり、ピッチ、うなり等を調整し、整調、整音を経て作業が終了します。私はそれぞれのピアノに標準的な調律法があって、調律とはその標準状態に戻してやることくらいに考えていました。実はそうではなくて、ピアニストに応じて彼または彼女が求める最適の演奏ができるように調整するのが調律師の仕事だと「羊と鋼の森」を通して知りました。高校生がふとしたことからピアノ調律の道に分け入り、プロの調律師として成長していく様を描いたこの小説で、調律の奥深さを知ることができました。「羊と鋼の森」とは、フェルトと弦で織りなすピアノの内部と調律の世界を森に見立てています。考えるまでもなく、医療においても標準的治療法を押し付けるのではなく、個々の患者の状態、希望、遺伝情報などを考慮して、患者が望む最適の治療を行うオーダーメード医療の時代に入っています。

湊かなえの小説「物語のおわり」(朝日新聞出版)に写真家についての記載があります。「いくら技術が高くても、何も考えずにただ風景を切り取った写真では、見る人に感動を与えることはできない」「激しい波しぶきの小さな一粒にも躍動感を保たせたい」つまり、与え手に心がこもっていないと、受け手にそのインパクトが伝わらないのは、ピアノ調律師であれ、写真家であれ、小説家であれ、はたまた医療者であっても同じだと思われます。

わが家のピアノは主がいなくなってまもなく4年を迎えます。幻の弾き手に調律をする時期が今年もやってきました。

(2018.7.1)