広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter10. 常識

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

以前に勤務した病院では、職員向けに「世間の常識を病院の常識に!」と書いた標語が張り出されていました。国家資格を持った専門職の集まりである病院は、ともすれば独りよがりの専門バカになりがちで、世間で非常識と思われることを行いかねないので、標語はこれに対する自戒の言葉だったのでしょう。ところが、世間はもちろんのこと病院でも常識と考えられていたことの中には、必ずしも普遍の真理でないものも混じっています。


少し前までは手術前の手洗いと言えば、肘の上部から手指にいたるまで、毛の堅い滅菌ブラシを使ってゴシゴシとこするのが常識でした。洗い流す水はもちろん高価な装置で作った滅菌水です。手術があった日に入浴すると、ブラシでこすった腕がピリピリとしみたものです。今ではよほどの汚れがない限り手洗いブラシは不要とされ、皮膚殺菌消毒剤で両腕をもみ洗いの後、消毒薬配合のエタノールを塗る方法が推奨されています。堅い毛のブラシの使用は、手荒れを起こし、皮膚に細かい傷をつけ細菌感染のもととなり、感染防止の面から逆効果となります。しかし、中にはまだ古い手洗い方法に固執する医師もいて、染みついた固定観念は簡単には除けていません。

手洗いに使用する水も同様です。滅菌装置で作った水を使っている施設が多いのですが、衛生状態の良いわが国の上水道は原則的に無菌状態であり、今や水道水で十分であることが証明されています。むしろ水道水を使用して定期的に水質検査を行った方が、より安全であると言われています。ところが、抗がん剤治療などで白血球が減って抵抗力の無くなった人たちが入る無菌治療室には、滅菌水装置が義務づけられています。科学的根拠が薄れても、法律が時代に追いついていない一例です。

手術後のガーゼ交換も儀式的なものに過ぎず、医学的にメリットはほとんどありません。強いて言えばガーゼ交換の際に創部を観察すること位です。傷口を消毒しガーゼを替えても、感染防止には意味がないとされています。手術後フィルムドレッシングといわれる創部保護医療材料を貼り付けて、原則的に抜糸まで消毒やガーゼ交換で傷口を触らない方が良いのです。ガーゼ交換をしない外科医は決してサボっているわけではありません。

病院の手術室へ入るときは、帽子・マスクをつけ、手術着に着替えて、履き物も専用スリッパなどに履き替える施設が大多数です。しかし、感染予防の観点から、少なくとも履き物に関しては替える必要はないとされています。見学者であれば、着替える必要もなく、専用ガウンを着るだけで良いと証明されています。それでも旧態依然とした体制が続いているのは、徒弟制度のような外科医の世界がまだ残っているからでしょうか。履き物といえば、手術室ですら履き替え不要という時代に、病院食の調理室では専用履き物への履き替えが義務づけられているようです。調理室への入退室の度に、不潔な靴などに手を触れて履き替える方が余程問題ではないかと、私などは思ってしまいます。


医療従事者向けの図書「外科の常識-素朴な疑問50」(医学書院)には、慣習的に行われてきた医療行為に「?」を唱えています。そのいくつかは、ここに紹介しましたが、医療に限らず何事にも常識や慣習にとらわれずに、科学的根拠に基づくものであれば、どんどん採り入れていく勇気も必要です。

(2010.4.1)